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2007.03.13

重松清「送り火」

Img_5533_1読み始めてすぐに、「きっと泣いてしまうだろうな。」と思っていたけれど、案の定、途中から涙が出て止まらなくなりました。

重松清の短編小説集『送り火』の中、タイトルと同じ「送り火」というお話です。

私は、離れて暮らす年老いた父親、母親と、息子または娘、そこに、子の罪悪感めいたエピソードが挿入された話に滅法弱い。「送り火」はまさにそんな話でした。

遊園地の隣のマンションに夢のマイホームを手に入れた3人家族。しかし、父親はローン返済のために無理に働いてある日突然死んでしまう。残された母親と子供。母親は代わって一生懸命働いて、だから子供だった彼女はいつも一人。隣は楽しい遊園地なのに遊園地に行けない。だから遊園地が嫌い、そして日曜日が嫌いになっていた。

そして今、年老いた母親に同居の話をするために訪れた家。そこで彼女は奇妙な体験をする。閉鎖されたはずの夜の遊園地に集まる、もう死んでしまった人たち。そこで彼女は子供だった自分、若かった頃の両親と出会う。そしてそこでの体験を通して、ちゃんと遊園地が好きだったと言えるようになったのだった。

死んだ父親のことを母親と話すくだりで、もうダメ。

お父さんが家族を大事にするというとき、自分は含めていないの。お母さんとあなただけが家族なの。そのために、あんなにがんばって働いたの。

(お母さんも)家族のために美味しいご飯を作るときは、あなたとお父さんのことしか考えていなかったのよ。

そうなんだな。確かに今は、みんなも楽しむ、私も楽しむ、という時代なのかもしれないけれど、家族を思いやる時はきっと私も自分は含めないんじゃないかと思う。古い人間なのかもしれないけれど。。。

あとひとつ、「家路」。家路を急ぐ中、心臓発作で駅のベンチに座ったまま死んでしまい、ずっとそのベンチから離れられない男の霊。彼は、いつも、「帰りたい、帰りたい、、、」と言っている。その彼が、家を出てしまった主人公の男にこんなことを言っています。

家族には『さよなら』という挨拶はしない。わかれるときはいつも『行ってきます』と『行ってらっしゃい』。それを言ったら帰らなきゃ。子供に『さよなら』と言わせてはいけない。。。

そうなんだな。私も、実家に帰ったときは「ただいま」で、東京に戻るときは「行ってきます」だ。でも、お葬式の時は「さよなら」と言って父を送った。

そういえば、「その日のまえに」では、海で打ち上げる花火が初盆で帰ってくる親友や妻のための、迷わずにここに帰っておいでという<迎え火>でした。この本も号泣。

そして「送り火」は、遊園地の観覧車の避雷針が、道に迷わずに帰るんだよという<送り火>になっていました。

重松さんの本を読むと、普段は心のずっとずっと深いところで気づかないようにしているノスタルジーが刺激されて、それがふわりと浮き上がってくる。そんなノスタルジーを感じて涙が流れるのも時にはいいのかな、と思うのです。

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